2008年5月14日更新
ボナールについて
川村記念美術館でマティス・ボナール展を開催しています。日本人はどういうわけかボナールが好きですね。
運刻斎がボナールに接したのは1968(昭和43)年36歳のときに国立西洋美術館でボナール展: 生誕百年記念という展示会
に行ったのが最初です、えんじ色や紫のなんと云えない色使いや、空の色に黄色を混ぜる技法など運刻斎が始めて体験
した色のバランスです。運刻斎は大いに気に入ったのですが世の中は面白いものでこの色使いが大嫌いな人がいたのです。
ボナール嫌いで有名なのはパブロ・ピカソです、ピカソいわく「ボナールはまず自身の感覚から抜け出せない、たとえば
空を描く場合、おそらくまず青くする、空はそう見えるからね。それからしばらく見つめていると、
その中にモーヴ色=『モーヴとは、藤色、薄紫を表すフランス語です。紫色のなかでも赤紫系ではなく、青紫系で、
最近はヘアーカラーのCMで使われて有名になりました』が見えてくる。そこでかれはモーヴ色を一筆か二筆加える。
それからこんどは、また桃色もあると考え、そうなると桃色もどうしても加えたくなる。結果は不決断の寄せ集めだ、
絵画はそんな風にして作られるわけがない、と散々です。
運刻斎は逆にボナールの色はピカソが云ったような思いつきで塗り重ねたものではなく周到に計算されたものであると思います。
たとえばこの展示会に出品されている国立西洋美術館蔵の1933年制作の「花」とか、モンテカルロコレクションの1932年制作の
「秋の風景」など今回単眼鏡を持参してじっくり細部を観察しましたが決して不決断の寄せ集めとは思えない緻密なものでした。
ボナールは今回の展示会に来ているポンピドゥー・センター蔵の
彼の絶筆「花咲くアーモンドの木」を完成させてすぐ、1947年(昭和22年)1月に亡くなりました。そして没後すぐにボナール批判は
始まります。クリスチャン・ゼルヴォスが『カイエ・ダール』誌に「ピエール・ボナールは偉大な画家であろうか?」という記事を
掲載しまししたのです、彼は同誌の主宰者をしていました。これに対し、ボナールの友人であるマティスは「わたしはピエール・ボナール
が今日でも、そして確実に未来まで偉大な画家であることを証明する」と書きました。マティスとボナールは親しく文通をしていたようです。
今回の展示会では二人の書簡の写真がディスプレイで公開されていました。マティスはフォーヴ(野獣派)と呼ばれていますが人格円満な人だったようでルオーとの文通
でも有名です。クリスチャン・ゼルヴォスや1919年にボナールについて最初の評論を展開したレオン・ウェルトなどがボナールを否定的に
見る理由のひとつとして美術史的な観点からアイデンティティーが不明確であったことに疑問を抱いたようです。レオン・ウェルトは「ボナールはキュビスムの画家でもなく、
シュルレアリスムの画家でもなかったことを悔いたであろうか」と云っています。
ボナールの絵は一見素人にも分かりやすく、訴えかけるものは少ないように考えられますが、巷間言われるようにボナールは単なる遅れてきた画家なのでしょうか?
すこし系統的にまとめてみますとボナールは、ナビ派(「ナビ」はヘブライ語で預言者のことです)とか
象徴主義と呼ばれて、先の美術史的な視点でいえばポスト印象派とモダンアートの中間点に位置する画家です。科学的実証主義が時代の趨勢となっていた19世紀末、そこ
にあえて神秘的なもの、超自然的なものを表現しようとしたのが象徴主義、いわゆるナビ派でした。象徴派が求めたものは
、目にみえないものを絵にしたり、身近な題材を好んで描いたことから、ヴュイヤールとともにアンティミスト(親密派)
とも呼ばれています。ボナールは1867年、陸軍省の役人の子として、パリ近郊フォントネー=オ=ローズに生まれました。1887年、
大学の法学部に入学するが、そのかたわらアカデミー・ジュリアンに通い、ポール・セリュジエやモーリス・ドニと出会う。
1888年にはセリュジエを中心に、後にナビ派と呼ばれることになる画家グループを結成した(の意)。
1889年エコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入り、ヴュイヤールと知り合う。1890年、エコール・デ・ボザールで
開催された日本美術展を見て感銘を受け、以後の作品には日本絵画の影響が見られるとのことで、今回の展示会でも
ジャポニズムに関する記載がありました。
1893年に妻となる女性、マリア・ブールサン(通称マルト)と出会います。以降ボナールの作品に描かれる女性のモデルの多くがマルトになります。とくに
入浴する裸婦の絵は殆どすべて妻を描いたものだそうで、ちょっと気味悪いですね、運刻斎としては個人的にはこれら一連の浴室の裸婦像は
あまり好きではありません。嫌いな理由はまず「ヨメはんの入浴する場面を絵に描くなんてなんとなく暗い感じがする」さらには「色合いが寒色系で暗い」
致命的なのは「お腹が出ていてモデルの体系が悪い」といった理由で作品そのものに美しさを感じません。展示会には屋外で撮影したマルトのヌード写真なども出品されていて画家自身の
撮影という説明がありました。この逸話などもなんとなく気味の悪いところです、、
マルトは、鬱病の気味があり、潔癖症で入浴好きで、一日のかなりの時間を浴室で過ごしていたと言われています、これは胸を患って
いたための温浴療法との説もあります。ボナールは、病弱なマルトの転地療養のためもあり、1912年にはパリ西郊ヴェルノン、
1925年には南仏ル・カネに家を構え、これらの土地でもっぱら庭の風景、室内情景、静物などの身近な題材を描きましたそして前述のように1947年1月にル・カネで没しました。
マティスについて
一方のマティスは20世紀を代表する芸術家の一人と云われています。1869年フランスのル・カトー・カンブレジに生まれました。
当初は法律家を志しますが、1890年、盲腸炎の療養中に絵画に興味を持ち、画家に転向、ギュスターヴ・モローに師事します。このときモローについて一緒に絵を習ったのが
キリスト像で有名なルオーですね。マティスの初期の作風は写実的なものでしたが、ゴッホ 、ゴーギャンらの影響を強く受け、
形や面を単純化し、色彩を強調するという革新的なスタイルに到達します。長年に渡り所有したセザンヌの油彩画「水浴する三人の女たち」が新たな作風を確立するための支えとなったといわれています。
運刻斎がそれまであまり良いとは思えなかったマティスを好きになったのは1992年に生まれて初めて行ったパリのポンピドゥー・センターでみた1948年制作の「大きな赤い室内」という絵です。
マティスの赤は実に解りやすい、その後6年間住んだデュッセルドルフにあるノルトライン・ヴェストファーレン州立美術館にある同傾向の絵1947年制作の「赤い室内青いテーブルの上の静物」
は2004年のマティス展にも出品されていましたが、今回も来ていました。往時の運刻斎は州立美術館の入場料が安くてアパートの近所にあったことから何度も見に行きました。
マティスの赤は前述のように明快で解り易いのですがボナールの赤は黄色、オレンジ色、モーヴ色から徐々に赤に移行する非常に複雑なものですから光の加減で見え方が違ったりします。
ドイツに住んでいた1996年頃に制作したマティスの模写です、前述のポンピドゥー・センターでみた1948年の「大きな赤い室内」原寸大です。当時はドイツのフラットとしてはやや広めの70平米の部屋に住んでいました。
リビングは15畳(??)くらいの広さがあって
この絵を壁に飾るとちょうどバランスがとれました。しかし日本に持ち帰ると大きすぎて飾る部屋がありません。
先のモディリアーニ展特集で公開した模写は結構評判が良かったのですが、中には「運刻斎は模写ばかりでオリジナル作品はないのか?」という苦情もでました。
そこでここ2年ぐらいの作品を並べてみました。最初は風景画です、住んでいる団地の裏山を屋外で写生しました。本当にクラムジー(へたくそ)ですねぇ〜腕が落ちました。
同じ風景を描きました。大きさは6号で先の10号の絵から90度視点をまわしたものです。ますます腕が落ちていますね。
お気に入りの伊賀の壺にさしたバラを描きました。額がやけに立派でしょう?へたくそな絵には高価な額を!!最近は体力の衰えとともに小さな0号や1号の絵を描くことが多いです。
2年前に他界した猫の「のんの」像です。これも大きさは1号です。
「のんの」像は食堂の壁にイタリア製のお皿と並んで飾ってあります。
いま仕上げをしている自画像(夫婦像)です、これも小さな1号の絵です。
おまけです、1975年運刻斎33歳の作品です。ある企画展で新人賞を頂戴しました、いわば運刻斎が初めて世の中に価値を問うた絵なのですが、当時の風潮には割りに合っていた様で過分にお褒めを
戴きました。その後は泣かず飛ばず状態で32年が経過しました。
言い訳になりますが絵を描くという作業はかなり精神的に参っているときにしか出来ないのではないでしょうか?それとも頭のおかしくなったとき?運刻斎は後者のようですね。
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