2008年6月10日更新



山田さきの手記、引揚者の体験昭和20年〜昭和23年 序 テレビで中国残留孤児の報道を見た。一行45名中22名が親又は肉親を捜し当てたが 半数以上が無念の涙を呑んで帰国した。白髪まじりの孤児たちは私の長男や二男と 同年齢なので涙なしでは見られなかった。皆生活に疲れた顔をしていて「パーパマーマ」と 必死に呼びかけるのを私の子は、どんな思いで見たであろうか、この人達と同じ運命になる 可能性はあったのだが私は、それを話してない。 塗炭の苦しみを味わった私は戦争とは敗戦とは、こんな悲惨ものだと伝える義務があると考えた。 今の人達は昭和元禄に酔いしれて敗戦のみじめさに耐えられないだろうと思う。 もし私が残留孤児を探す運命だとしたら伊知郎は幼顔が残っていて、一才の時火傷を負ったあとが あるので、すぐに判別できるだろう。二朗は終戦時生後十五日だったので今の顔と別人の ようであるし、血液型は、その頃の検査でA型と云われていたので私は信じていたが最近の 検査でB型と云われ再度調べてもらったが矢張りB型と出たとの事である。 二朗を手放していたら、おそらく再会して否定するであろう自分を恐ろしいと思った。 戦争は民衆を、こんなに苦しめるものだと声を大にして云いたい。また戦争は勝てばよいと 云うものでもないと思う。敗れた国の惨めさを思うべきだ。人間には信仰心があればよいでは ないかと思った事もあるけれど宗教対宗教、同宗教内の対立いずれも憎しみの深いことを思うと どの宗教がよいのか分らなくなってしまう。 戦争のない世を願うのは所詮ないものねだりであろうか、子供たちよ母の通ってきた苦難の 一節を聞いて下さい。そして神に受入れていただける人間になるよう鍛えて下さい。
                                                       昭和58年春
昭和二十年八月、終戦の年八月十五日には朝鮮釜山府大庁町一丁目一番地に居た。山の手の住宅街で、伏兵岳 に通ずる道路が家の前を通り右手で数段の石段となっていた。夫の昭雄は、その年の6月15日 応召し大邱聨隊に入り要塞作りに従事し乍ら、あちこちと移動していたらしい。私は当時ニ男 の二朗を妊娠八ヶ月の身重で、三才の伊知郎と姑と共に残された。 伊知郎は招集令状のくる前の夜半に飛び起きて「とうたん行ったらいけん」と泣き叫び、いくら なだめても泣き続けた。翌日令状を受とった時に私は伊知郎の鋭い予知感覚におそれを抱いた ものだった。見送りの駅でも「とうたん行ったらいけん」と泣き私も母も貰い泣きしたので あった。入営した夫の部隊は全部南方へ船で運ばれる途次撃沈されて海の藻屑となったが夫 の班だけ赤痢患者が出たり逃亡兵があったりで二度も乗船を免れ要塞作りに変更された由である。 姑と私はお不動様へお参りをしお護摩を焚いて足止めの祈願をしていたのである。夫の部隊が 乗船の為桟橋に集合していると云う知らせが会社の人から入り、息せき切って桟橋に駆けつけたが、 遠くから見る兵隊の列は皆同じようで、さっぱり分らず背恰好の似た人に視線を凝らして涙する のであった。夫の生死は判らぬまま一ヵ月後に軍用で外出した夫が2時間くらい家に立寄り事の 次第が分ってお不動様に御礼参りをした。 七月三十一日に産気づいた私は入院の予定を変更して家に産婆さんを招き二十時間も苦しんだ末に 空襲警報下の暗い灯の下で8月1日0時半頃二朗を出産した。難産で心臓が弱り終戦の日には床 は離れていたけれど浮腫がとれず不安の中に詔勅をラジオで聞いた。 雑音で聞きとり難く呑み込めなかった。「絶え難きを耐え」と云うお言葉が聞こえたけれど戦争 は続くのだろうと思っていた。 やがて隣組の人達が戦争は終った。日本は負けたのだ。朝鮮は独立した。私達は日本に帰らなけ ればならないだろう・・と騒ぐ声が耳に入ってきた。最初に思った事は「今夜から電灯が明るくなる」 と云う喜びだった(灯火管制がなくなる)。次に戦争が終ったならお父さんが帰ると思ったけれど 警備に就く為帰らないと情報が入り、がっかりした。 我家の近くにも兵舎があり兵隊さんが出入りしていた。脱走兵が「民服を下さい」と立寄って夫の 服を差し上げたりしたが、夫も脱走してほしいと思った。 軍靴の音がする度にお父さんかと耳を澄ませた。付近の家ばたばたと荷を片付け郷里に引揚げ始め たが産後間もない私は、どうする事もできず心細い思いだった。 風のたよりに夫の所在地は近郊の松島海水浴場と聞いて姑と子供二人を抱いて訪ねて行った。 こわごわバスに乗って辿りついてみると昨日異動して行ったとのことで設営の跡が残っていた。 がっかりして家に戻り又軍靴の音に耳をすませる日が続いた。 市街地の方は割合に平静であったが私の実家(谷姓)は郊外だったので、とても恐ろしくて居られ ないとの事で私のお隣が引揚げ、空家なので取あえず一家が越して来たのであった。 奥地では権力を振り回していた警察官や官公吏が朝鮮人に殺されたとか・・ 日本人の家や家財を略奪する者や、穏健でも自分の欲しい家や家具をただ同然の値段で買い求める とのことであった。毎日びくびくしていると或る日私の家にも二人連れの中年男が来てミシンと モーニング(礼服)があったら売ってくれと云った。私は抱いていたニ男と傍の長男を姑に渡し、 蛇に立ち向かう親鳥のような気持ちで玄関へ戻った。平静を装いながら「私共には大変親切な 朝鮮人の知人があり、家と家財を買って頂いているから駄目です」と断ったが二人は家の中を 覗き込み今にも上がりそうに見える。私は必死になって「二重売りする私と思うのですか、戦争 には負けても日本人は、そんな狡いことはしません」ときっぱり云うと相手は少しひるんだ。 実は約束したのは嘘であったけれど、とっさに私は姉の家に店員として永年つとめた安さんを 思い浮かべ、あの人に皆上げればよいと決心した。           波乱の引揚船         そのあとすぐに安さんを訪ね家と家財を提供するので引揚の世話をして欲しい、但し主人が 帰還してからの事で、それまで私達の安全にも手を貸してと頼んだところ安さんは喜んで応 じてくれ、それからは度々我家へ来て留守も守ってくれた。 待ちに待った夫が帰って来たのは8月31日であった。安さんは夫と共に家の片付けを してくれた上、引揚船の世話から荷物の運搬もして下さった。乗船の時は子供を抱えて 乗せてくれたうえに林檎を一袋お餞別として下さったのである。 関釜連絡船に乗れば安全な代りに荷物は手回り品だけと云う達しであった。家族5人が 夜具も何も無しで何処へ帰る先もある筈がない。ヤミ船で帰れば一人一個の荷物が持ち 帰れると云うので5個の荷と5人で5千円と云う大金を払って機帆船に乗る事になった。 5千円あれば立派な家屋敷が買える頃だった。 私の実家も之に加わる事になり母と妹二人は連絡船に乗る為あとに残った。総勢二十名 くらいの人間と荷を乗せて出帆したのは9月29日の午後であった。 生まれ育った土地を離れる悲しさと引揚先の定まらない不安とで遠ざかる牧之島と 伏兵山はぼんやりと涙に霞んで見えなくなった。港を出ると波は高くなり船は大揺れ に揺れて波の間にすべり込むようであった。  対馬・佐須奈港 荷物の間にニ、三人宛て屯ろしていたが嘔吐する声が、あちこちに聞こえ悪臭と蒸し暑さ に閉口した。夜に入ってから内地に直行する筈の船が対馬の佐須奈港へ入った。 後で聞くと船長が急病であったとの事で私達は下船して旅館に一泊した。翌朝出発したのは 船長の黄疸がひどくなり帰国を急いだ為に無理な出港であったわけである。 台風に遭って大へんな事になった、船はきりゝ舞いをして進まず板を並べた屋根のすき間から海水 がざーっと入ってくる。小さな荷物は転がって船底へ落ちる。二朗は私の乳房へ吸いついたまゝ 出ない乳を吸っているし、長男は纏りついている。私はおんぶ用の兵児帯で長男と私を結えた。 沈没しても親子はなれぬようにと又、子供の恐怖を少しでも静めてやろうと云う気持ちだった。 私の乳首から血が滲んでいるのに離せば泣くので必死に、こらえるのであった。 船員さんは「お客さん覚悟して下さい」と叫び乍ら帆の操作に必死だった。見上げる板屋根の すき間から見える波は船よりも、はるかに高いのが判る。  隣の少し離れた処に居る夫人が 「南無大師遍照金剛」と声をあげて唱え出した、そして私にも唱和して下さいと云う。他にも 声が上り出して何百回も唱えた。もう駄目だと観念して長男を小脇に抱きよせ、いざと云うときは 何も判らない二男を放して長男を抱えてやろうと決心した時、二男をたまらなく哀れになった 私は声を上げて泣いた、無心な嬰児の頬を私の涙は、とめどなく濡らすのであった。 その時「灯が見える島だ助かった」と叫ぶ人があり皆騒然となった。だが船員さんはあれは灯台 で港ではないから入れない」又々お題目の合唱が始まった。地獄絵さながらで子供達は眠って しまったが頭と云わず体と云わず荷物にぶっつけられて大人達もへとへとであった。 突然船員さんが「島だ港だ」と叫ぶ、皆は歓声を上げた。 港に入るのだと安心したが何時まで待っても船は同じ状態で一向に港に入る様子がない、 聞くと此の辺は機雷が多くて前に入港した引揚船は木っ葉微塵と云う、それで夜明けまで待つ との事であった。それでも、もう助かったと云う思いから皆一斉に空腹となり、あちこちで 食物を出して食べ始めた、私も長男が空腹を訴えるのでお弁当を探したが見当らない。 揺れころがって荷物の間に落ちたらしいが探すことも出来ないので子供に云い聞かすが 「ごはーん、お握りー」と泣き叫ぶ。 (伊知郎 注) この頃から長男は食い意地が顕著!! 近くの人は伊知郎に見せないないよう背中を向けて食べている。その時一人の紳士が伊知郎に御飯 を茶碗に一ぱい下さった。私は恐縮して言葉も出ない位此の時の御飯は、どんな宝よりも貴重なもの であったから神様のように思えた。この人は後に山口県下松市で同じ町内に住んだ木村氏だったのである。 (伊知郎 注)木村氏の長男は二歳年長で下松高校から明治大学を卒業し下松市役所勤務、 次男正二君は長男の同級生である。 福岡県・相ノ島へ漂着 やがて夜が明けはじめて船は静かに港へ入った。船着から見ると波打際には難破船の荷物が ちらばり衣類などを島人が取り出し干している。海上には木片や死体らしきものなど数多く 浮いていた。私達の前の船も後の船も爆裂だったのに「あんたらは何と運がええの…」 と島の人達は感嘆の声を上げて喜んでくれた、この島は九州の相ノ島と云うことであった。 その時、何処からか主人と姑が這い出て来た。私は腹が立つのも忘れて、どこに居たのですか と聞くと荷物の間に転がり落ち、上に又荷物がかぶさり姑は船酔いで死んだようになっていた との事、私達三人の事を考えてもいなかった様子に情けないやら頼りないやら、それでも命が 助かっただから喜びの方が大きくて何も云わなかった。 夫にお弁当を探し出してもらい、開けてみると赤青黄のカビだらけのお握りが潰れて並んでいた。 ためらいながらも空腹だったので海水で洗い船の七輪を借りてお粥に焚き直して食べた。 木村さんがそれを所望されたのでお詫びしながら丼に一ぱい差し上げたら、80才のおじいさまに たべさせられた。この島には泊まらず上陸もしないで、私は海水でおむつを洗って干した。 休憩の後、上天気の中を出港、山口県の上の関に向ったが始めて穏やかな瀬戸内の航行に夢の ような思いだった。 上関・水場港到着 水場港についた時みんな無言だった。どんな運命が待っているのか不安で一ぱいであった。 上陸して宿に着いて出された番茶と沢庵のおいしかった事は忘れられない。しみじみと味わって 思わず有難うございますと神に感謝の祈りを唱えた。 夫達男性は船の荷卸しに立ちあがり、難行がはじまった。欲張って大きな荷ばかり作ったので 船板は折れんばかりに歪むのを、はらはらする思いで見つめていたが貸倉庫に納め、やっと家族 揃って座敷に通された。我が家にとって父系唯一の記録・室積の戸仲付近の農家で私と同級の 女の子がいた家か何処に落着くかを定めるのが重要課題であった。父方の親類は引揚げてくる のを予想して光市室積の市営住宅を二軒借りてくれていたと云うことであったのに主人と姑は 既に相談済みであったらしく母の実家、立野の玉木家を頼ってゆくと云う。 私は玉木家へ行くのは嫌であった。しかし私の意見など最初から無視して相談もないまゝ明日 主人は立野へ行って交渉してくると云う事で一泊し翌朝早く水場から立野へと出発した。 帰って来た主人は玉木家の承諾を得たと云う事で早速出発する事になった。 立野には主人の弟の正一さんが海軍を除隊して私達に加わり6人の大家族が居候することに なったのある。 (二朗 注)正一叔父からは戦艦大和の護衛船に乗船し、九死に一生を得たとの話を 後日聞いた。運動神経の発達した人で、昭和39年事故死する。 後に10年以上経て分った事は姑は立野の小原に田地と山を買っていたので あったが私は知らなかった。玉木の叔母さんの苦しみを思うと私は針の筵にいる思いで 罪人のようにおずゝと叔母さん達の顔色をうかがい乍ら暮らした。 (注 二朗)立野へ祖母が土地を所有していた話は私が小学生の頃直接愚痴のように 聞かされた。 後にこの土地は全部叔父の所有となり、土地ブームの時に売払った金額は9000万円と 聞いたのである。姑は土地を取られたと云って泣き、叔父は貰ったと云い、私は初めて 姑が土地を持っていた事が分ったのである。姑は私に何とか取戻す方法はないかと云ったが 既に二十年経っていて時効である。市営住宅の方に移っていたらこんな事にならなかった のにと私は私の意見を無視した夫や姑を軽蔑したが、何も云わなかったし姑に同情も しなかったし叔父を憎む気にもならなかった。  線路踏切近くに住む    玉木家での生活は私にとって耐えられぬものであったから何とか別世帯なりたいと家を 探して朝鮮人が住んでいた家が空いていると聞き一も二もなく移る事にした。畳も障子 もなくがらんどうの藁家で役場に申請して畳六枚をもらい、あとの部屋は古畳と筵を寄 せ集め三部屋を使えるようにし障子のない処には筵を下げ、山の湧水を使って、どうや ら玉木家を離れたが原始生活のようであった。夫は万事姑と相談し私の意見は少しも 容れなかった。食糧確保の為には百姓するより他はないと云う二人の意見で叔父に頼ん で三反歩の田地を借りる事になった。機械を持たず牛も持たず鍬も何もない者がペン を持った手で耕作を始めるなど、どだい無茶なことは 火を見るより明らかなのに私も仕方なく従わざるを得なかった。 幼い二朗を柱に括りつけ伊知郎を連れて田圃通いをした。一鍬宛三段の田を掘り起こすの であったが食糧もない栄養不良の身で母乳は出ず二朗は骨と皮になってゆく。主人の弟 は石切場に働きにゆくので姑は此の弟に食べさせたくてたまらず小さな一缶切りの配給、 二朗のミルクさえ盗んで弟に飲ませるので私は煮え返るような思いで姑を憎んだ。姑と 私は食物の事で何度か憎み合い心の晴れる日は一日もなかった。 姑が食事の支度をすると盛切り丼のご飯は弟に一番多く次が主人と姑で私と伊知郎の椀が 一番少なかった。箸を立てて倒れるか否かで計るのであったが嘘のような本当の話である。 無理を重ねた私は風邪が原因で肺炎から肋膜炎となり働けなくなった。 一年を経て収穫時が来た時大変な事が持ち上がった供出米の割当が出せないほど凶作で あり村の重大事となって毎日会合協議され不足分を各農家が分担する仕儀となったのである。 夫は会議に引張り出され村人からさんゞの非難を浴びたらしい、供出米を何とかして もらったものの我家では自家米もない始末で買って食べるより他ないのである。その上 叔父までが村人に恨まれ姑と夫はげんなりとなっていた。病気の私を抱えて思案に余っ た夫は光市まで毎日職探しに行き、がっくりと肩を落として帰宅した。 村人の非難の目は一斉に我家に注がれ、たまたま畑のものが盗まれると「引揚者が入る まで此の村には泥棒などなかったがのう」と聞こえよがしに云うのであった。叔父は 或る日、夫に此の村を出てくれぬかと云ったそうである。夫の苦悩は目に余るものであった。 3歳の伊知郎の悪戯にさえ怒って手当たり次第に物を投げつけ私の物の云い方が悪いと云って 出て行けと怒り、或は一人戸外の石に腰かけて頭を抱えていることも度々あった。 弟は石切場をやめて宇部の炭鉱へ行った。 万事窮すと見た夫は弟の後を追って炭鉱へ単身行くと云いだした。私は夫との別れに 何の感傷もなく毎日発熱するのに一時おさえの熱さましを飲むだけで、声を出せば背中 が痛み手を動かすのも苦痛だった。姑は「此の年になって病気の嫁を抱えるとは何の因果か」 と愚痴を云っていた。 それでも寝ていることも出来ず無理に無理を重ねた私は遂に枕も上がらぬようになり往診の 医者は、もう駄目だと云ったらしい。姑は言葉の分らぬ二郎に泣き乍らその事を話して居る のであった。 (伊知郎 注)祖母はそのころ飼っていた猫に「お前ねえ、もうすぐ引っ越すからお前も 家を出て自分ひとりで暮らしなさい」と言うと翌日その猫が居なくなったと私に話してくれた。  宇部・谷宅 昭和二十二年 時折帰宅した夫は遂に私達を宇部に呼び寄せる事として、当時私の兄も炭鉱に行って社宅 を貰っていたので一時同居させて貰うようになり立野を引揚げる事になった。 荷物を送り出したあとタクシーもない頃の事、夫は私を背負って山を越え駅に行くことに なった。夏なのに悪寒にふるえる私は毛布を頭から被り夫は、よろめきつヽ何度か道傍で 休み乍ら島田駅に辿りついた。叔父はじめ村人も誰一人手を貸さず見送りもなく、追われ るように立野を離れた。 兄は暖かく私達を迎えてくれ兄嫁もやさしかった。二間しかない家の一部屋を借りて寝た きりの生活が始まったのである。頭を上げるだけでくらゝとめまいがし、真暗となる、 姑は二朗を背負って配給物を取りにゆき煮炊きをした。私は済まないと思い乍ら立ち上れ ない自分が口惜しくてならなかった「神様、立って歩けるようにして下さい私は喜んで力 の限り働きます」と祈った。表を歩く人の下駄の音が羨ましく私も歩けるようになったら 大きな下駄を買って音を立ててみようと思ったりした。 或る日夫が卵の黄身を黒焼にして飲むと死にかけた人も元気になると聞いたと云って卵を 5個何処からか手に入れて帰った。早速に煙をもうゝと上げ、盃一杯くらいの、どろり とした黒い油を作った。私は子供に食べさせたらどんなにか喜ぶだろうにと心で詫びな がら毎日飲んだ。 ところが一週間目には頭が上がるようになり、二週間目には立って歩けるようになり、 一ヶ月経つと戸外にも出られるようになった。 始めて窓まで行って戸外を見た時に夏景色が冬景色になっていたので驚きと嬉しさに私 は感極まって泣いた。ひと月後には夫と二人で宇部の町へ行った。夢のようだった。 夫も姑もとても喜んでくれた。オンボロの炭住をもらい、兄の家にも別れる事が出来た。 兄は労働組合から東京へ派遣され炭労の事務局次長として単身赴任していた。 嫂と姪二人が炭住に残り、時々帰宅する兄は、ぱりっとした背広姿で別世界の人のように 自信にあふれ、珍しい玩具など私の子供にも与えてくれ東京では大臣と会う事も度々ある との事であった。 (二朗 注) 炭住街の住まいから私の記憶が残る。谷幸一郎氏宅に晋子伯母に 従兄弟である保子・富子の4人家族が六畳くらいの二部屋に九人が暮したことになる。  昭和二十三年 翌年三男の三良が誕生したが病院に通いとおして無理の妊娠を無事出産に導いて下さった 先生は祝福して下さり夫も大そう喜んで炭住の人を集めてヤミ焼酎で祝宴を張った。 その後姑は弟嫁の出産を手伝いに行き1年近く帰らなかった。 炭住のハモニカ長屋は五軒宛が向い合せに並び六畳と二畳の二部屋だけで東の端に水道栓 があり、西の端に便所の棟ががあり、10軒の共用であった。洗濯の場所取りに朝は大変 だし、配給物を取りにゆくのも1時間くらいの行列待ちは普通だったので一日中ほっと する時間もない位に多忙だった。私は又々体をこわして寝込む日が多くなった。 診療所通いが日課となった。 (伊知郎 注) この医師は今城先生という二朗の命の恩人でもある。命の恩人、今城医師のことは 山田家がその後言い伝えた逸話である。 冬になり二朗は痳疹が悪化して肺炎を起こし危篤状態となった。今城先生は母の嘆き悲しむ 様を見て哀れに思われたと云って石川看護婦を伴いわが家へ泊り込みで徹夜の治療をして下さった。 二朗は金魚のように口をパクパクさせ唇にはチアノーゼが現われていたが、夜明け頃から急に呼吸が 正調となり、みるゝ元気が良くなった。 (二朗 注・当時最後の手段として闇入手のペニシリン 投与があったそうだ)母の眼は泣き腫れ、つぶれそうになっていて先生は「眼を洗いにお出でなさい」 とおっしゃって帰られた。 (伊知郎 注) 当時6歳の伊知郎が記憶していることは、先生の靴の中に二朗の嘔吐物が入って汚れているのを父が 恐縮して水洗いして、中に電球をいれて乾燥させていた風景である。 子供と共に診療所に通う日が多くなり医療費が家計を圧迫し赤貧洗うが如しの文字通りであったが、 三良が生まれたので少し広い炭住を貰える事となり六畳と四畳半、硝子戸の明るい家に住むように なって嬉しかった。今城先生は往診の帰りに立寄って下さり子供と相撲をとったり柏餅を下さったり、 石川さんは三良を特に可愛がりキャラメルをガーゼに包んでなめさせて下さった。今城先生と 石川さんは後に結婚されたそうである。 (伊知郎 注)この炭鉱住宅は三区といって海岸から道路を挟んで30mくらいの場所にあって、 現在は宇部空港の滑走路の突端あたりに位置している。 スラム街脱出策 私は炭住を出ようと決心したが夫は生涯このままでよいと云っていた。昼間電気の来ない炭住 故に店のラジオで職業紹介の放送を立ち聞きした。4月末の或る日宇部の駅にポスターがあり 「国税調査官及び徴収官採用」とあった。国税調査官は大学卒程度、徴収官は中等学校卒程度 となっていた。 私は夫に内密で願書を取りよせ両方の受験票を受け取った。これまでに私の意見を取り上げて くれない夫だから相談すれば駄目になると思ったからである。2枚の受験票を差出し乍ら夫 に話した「受からなくても良いから福岡まで遊びに行って念願の生ビールを飲んでいらっしゃい」 とすゝめたのである。驚いた夫は生ビールと聞いて眼を輝かせ「一週間しかないのに無理じゃ」 と云い乍らも宇部の書店に参考書を買いに行って坑内のポンプ係を勤め乍ら俄か勉強を始めた。 試験を受けにゆく為に着る物がないので、セルの和服をほどいて兄嫁に上着を作ってもらい、 配給の生地で手縫いのカッターシャツを作り、靴は豚皮のものを七百円で買い、珍妙なる 紳士が出来上がった。当時の月収8千円程度、貯金が8千円あったが配給の地下足袋・たばこ・ お米などを横流しして貯めたものだった。 (伊知郎 注)私の記憶では豚皮の靴ではなく、配給のズック靴に茶色の靴墨を父が塗って いたのを覚えている、「父ちゃん何しちょるん?」と聞いたら不機嫌に「おまえが聴かん でもええ事じゃ」と言って、黙々とズック靴に茶色の塗料を塗っていた。 4000円のお金を渡して皆使って良いから楽しんでいらっしゃいと送り出すと遠足に行く子供 のように、私や子供達に手を振って嬉々として夫は福岡へ向った。 3日目に帰宅した夫は私に半分の2000円を返し子供には玩具を買ってきた。伊知郎にはグローブ 二朗には汽車、三良にはお風呂用のあひるであった。計算が合わないので不審に思って聞くと 旅館には泊まらず2泊を駅のベンチで過し1泊分で玩具を買ったと云い、生ビールは飲んで 満足したと云う。 旅館は当時600円、汽車賃は往復1000円足らずだったから計算は合うのであった。 私は夫のやさしさに涙ぐんだ。子供達は大喜びで外へ出て皆に見せびらかしていた。 (伊知郎 注) このとき貰ったグローブは米軍の軍服の端布で作ったカーキ色のもので、私は昭和26年ごろ まで大切に使った記憶がある。  第二次試験の通知が来るまで試験の首尾は聞かなかったが夫は「大丈夫さヤマが当って いたもの」と云っていた。一週間後に第二次試験の通知が来て再び福岡へゆく時に私は 「必ず旅館に泊まってくださいよ」と頼み、夫もそれを守って今度はお土産なしだった。 面接の時「調査官と徴収官のどちらを選びますか」ときかれたとの事で両方パスだよと自信 たっぷりであった。一ヵ月後の発表まで私は、あきらめと期待の複雑な心境であった。 と云うのは税務署内部の登用試験も兼ねているとの事だったし、服装は夫が一番 見すぼらしく恥ずかしかったと聞いたので、あきらめの方が強かった。 7月のはじめ人事院総裁の名で封書が届いた。ぶるゝふるえる手で開けると 「おめでとうございます5千人の中から全国で50名人事院採用予定者名簿に載せ、 採用は必要に応じて成績順とします」と云う意味の通知であった。 思わず「ばんざい」と叫び傍の二朗を抱えてぐるぐると回り、おろして10円を与え、 好きな物を買いなさいと云った。 いつも3円か5円なので二朗はびっくりして駆け出して行ったが帰った時お釣銭を 握っていた。しかしそれから8月15日付で徳山税務署に勤務の辞令を貰うまで順調に 推移したわけでなく様々な難関があり、お金は底をついて文なしとなり引越しも出来 ないのであった。それでも昭和25年8月15日敗戦の日から満5年遂に人間並み の生活をする糸口を掴んだのであった。  (伊知郎 注) 父は徳山税務署から後に広島国税局に転勤となり国税調査官に昇進した。 母は国税調査官の名刺を親戚に見せて得意顔であった、昭和26年まで父は広島に 単身赴任し、時折出張先からお土産を買ってきてくれた、アメリカ製のベース ボールゲームなど当時の田舎では珍しい高価な玩具であった。